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長編怪談小説『御蔵』あとがき

 長編怪談小説『御蔵』は、本日をもちまして、連載を終了いたしました。

 全部読んでくれた方はほとんどいなかったと思いますが(笑)、一部でも読んで下さった方々には、厚く御礼を申し上げます。

 実は去年のうちに書いておいた作品を再推敲しながら発表していたのですが、途中で「簗瀬天平の正体が、実はヒロインの由紀だった」という展開にしたら、衝撃の結末になるかも、と考えたことがありました。推理小説的な要素が入った怪談なので、その方が物語としての完成度は高くなったかもしれません。

 しかし、やっぱりやめたのは、二つの理由があったからです。一つは、その展開にした場合、主人公はいくら努力をしても職に恵まれず、婚約者や親友を失ったりしている悲惨な男なので、あまりにも気の毒に思えたということ(笑)、もう一つは由紀がこの物語の続編に当たる『怪談十段』にも登場するキャラクターなので、ここで死なせるわけにはいかなかった、ということでした。だから、ラストはちょっと甘かったかもしれません。

 ちなみに第一回の『幽』怪談文学賞で最終選考まで残った『怪談十段』はこれより七、八年後、おれの地元をモデルにした架空の地方都市とその近郊で起こる物語です。ただ、いまのところブログで発表する予定はありません。

 それから、本編とは関係のない話になりますが、先月から作品募集が行われている某イベント文学賞も、いよいよ終盤戦に入りました。おれが投稿できるのはあと一作。

 ここまでは一応全作品に軽く目を通してきました。ただ、もう一つの文学賞が時期的にバッティングしているため、ここから先の全作チェックは無理だろうな……。

 ま、それはいいとして、空振り三振になってもかまわないから、最後の一作は思いっ切りフルスイングして、さばさばした気分で終わりたいと思っています。

 半年余りの期間、どうもありがとうございました!!

 皆様、ごきげんよう、さようなら。

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御蔵  《長編怪談小説 最終回》

          (九、簗瀬天平)

          5

 腕時計の針を覗くと、午前二時を経過していた。一分、二分と過ぎていく。
 どうしたんだ、簗瀬のやつ。こっちは八分前から来てるのに……。まさか、来ないつもりじゃないだろうな。
 その可能性も十分にあるのだ。三分が過ぎた。
 来ないか……。担がれたのかな。
 四分、五分と経過する。阿久沢は初め、怒りを覚えたが、徐々に落胆と、わずかな安堵を感じ始めた。
 由紀に電話をしておこうか。警察に通報されてはまずい。
 そこへ木立の向こうから、不意に人影が現れた。足音も立てずに――。
「あの……メールをくれた方ですか?」
 男の声であった。近づいてくるにつれ、その姿がはっきりと見えてきた。背の高さは中背の阿久沢よりもやや低い。ぶかぶかしたカーキ色のブルゾンを着て、太めの灰色のスラックスを穿いている。服装のせいで体型がわかりにくいが、小太りなようだ。癖のある髪が長く伸び、耳をすっかり覆っていた。
 男が足音も立てずに現れたので、阿久沢は驚いた。一気に緊張が高まり、また鼓動が激しくなってくる。気温が低下しているはずなのに、額に汗が滲んできた。
「私が、簗瀬天平です。ペンネームですが……」
 男が丁寧、というよりも、おずおずとした口調で名乗った。年の頃は四十前後といったところだろうか。丸顔で、眉が薄くて目が細く、鼻も口も小さい。どこにでもいそうな、地味で冴えない中年男といった風貌だ。
「おれは中野だ」
 緊張するまい、と念じながら、阿久沢は以前、使ったことのある偽名を名乗った。
「中野さん、ですか……」
 簗瀬がきょろきょろと周囲を見回す。神経質そうな仕草だ。
「あ、あの……取引の、条件、というのは?」
 声音が震えている。阿久沢よりも緊張していることが伝わってきた。
 何だ、想像していた以上に気が弱そうなやつだな。これじゃあ、おれの方が悪者みたいじゃないか。阿久沢は嫌な気分になりかけたが、それを抑えて、
「条件は二つだ。一つはおまえがかけた呪いを今すぐ解くこと。もう一つは、おまえが殺した人間の遺族や関係者、それから傷つけた人間たち全員に謝罪しろ、ということだ」
 相手に威圧感を与えるため、わざと横柄な言葉を遣った。
「お、お金の話では、ないのですか」
「金の問題じゃない」
 阿久沢の鋭い一言に、簗瀬の顔から血の気が引いていった。
「あ、あれは、御蔵たちがやったことなんです」
「御蔵たち?」
「ボツにされた作品に出てくるキャラクターや小道具のことですよ。私はそう呼んでいるんです」
「責任逃れをするつもりか」
「ほ、本当です」
「どんな呪いを使って、その御蔵たちを呼び出したんだ? 詳しく話せ」
「うう……」
 簗瀬が掌で額を拭う。彼の顔も冷や汗で光っていた。
 やっぱりな。汗をかく幽霊なんていない。こいつは生身の人間だ。阿久沢は確信した。相手が生身の人間なら、取引は可能だろうと思っていた。しかも、明らかに怯えている。これなら上手くいきそうだ。
「わ、私は、呪いなんて、使っちゃいません。私には生まれつき、か、か、彼らを生み出す能力が、備わっていたんですよ」
 簗瀬はしどろもどろにそこまで話したが、急に何かを感じ取ったらしく、おや、と夜空を仰いだ。
「どうした?」
 簗瀬はしばし沈黙した後、
「御蔵たちが騒ぎ出したようです」
 急に笑みを浮かべた。
「あなたも、N社の関係者なんですね。どうせ、中野って名前も嘘なんでしょ」
 細い目だけは笑っていない。別人のような、凄味のある顔つきになった。
「取引はお断りします」
「何だと……」
 阿久沢は簗瀬の突然の変貌に慌てた。
「おい、この情報をおれが漏らせば、おまえはまともな社会人として暮らしていけなくなるんだぞ」
「偽中野さんは何もわかっちゃいない。私にとって、そんなことはどうでもいいことなんですよ。今の私には、失う社会的な地位もなければ、仕事もない。親が遺してくれた遺産を食い潰しているだけの男ですからね。離れていく家族や友達もいやしないし」
「じゃあ、何で今夜、ここへ来た?」
「退屈だったからですよ。どんな馬鹿が現れるのかと思って、顔を見てやりたくなったんです」
 簗瀬の声音の震えは完全に止まっていた。
「私を警察に突き出しますか? 残念ながら、法律では私を有罪にすることはできませんよ。何の証拠もありませんから。それは偽中野さんも御存知のはずです」
 痛いところを突かれた。
「それとも、私をここで殺しますか?」
 できるものなら、そうしてやりたいさ、と阿久沢は奥歯を噛みしめた。
「あなたにこの簗瀬天平は殺せませんよ。こっちには御蔵たちがいるのでね」
 背後の木立の中から、大きな黒い蝶が飛んできた。この時期の、こんな時間に蝶が舞っているなど、ありえないことだ。それは簗瀬の左脇へ来ると、突然、人間の女の姿になった。黒い袖なしのワンピースを着て、長い髪で左半面を隠している。右半面の顔立ちは美しいが、眼光が鋭かった。
「『最恐の復讐者』の菊岩累です。彼女は『生贄の日』にも、脇役として登場させたことがあります」
 阿久沢は息を呑んだ。ある程度、想像はしていたが、実際にこんな光景を目の当たりにすると、立ちすくんでしまう。
 さらに、夜空から異形の者が黒いポンチョを靡かせながら舞い降りてきて、簗瀬の右脇に着地した。
「こちらは『闇夜の制裁者』の付喪神ハイパー」
 阿久沢は愕然とした。付喪神ハイパーがこんな姿をしているとは、思いもしなかった。人間が着ぐるみを着ているわけではなさそうだ。後退りしながら、
「簗瀬、そっちこそ、おれを殺すつもりなのか? おれから連絡がなかった場合、仲間が警察を呼ぶ手筈になっている。馬鹿な真似はやめろ」
 と叫び、ショルダーバッグを開けて御札を取り出した。
「ほほう。周到ですねえ」
 簗瀬が再び冷笑を浮かべた。いかにも人を小馬鹿にしたような、余裕のある態度であった。
「でも、生きて帰ることはできませんよ。ほかの御蔵たちも、じきに現れますからね」
 付喪神ハイパーと菊岩累が平然とこちらを見つめている。御札の効果はまだ発揮されていないのだろう。
 取り囲まれたら終わりだ――。
 阿久沢はその場から逃げ出した。足には自信がある方だ。子供の頃、運動会の徒競走や障害物競走で、何度か一等賞をもらったこともある。
 走りながら振り返ると、追ってきている様子はなかった。変だな、と思いながらも、出口へ急ぐ。交番へ駆け込めば、簗瀬も追跡をあきらめるのではないか。
 出口に通じる石段が見えてきた。そこを下りようとして、阿久沢は立ち止まった。下から何かが上ってくる。
 少女の傀儡と黒い影だ。少女の傀儡は小さな双眼を真っ赤に光らせ、木箱に座っていた。黒い影は木箱を胸に抱えた黒子である。
 あれが、吸血傀儡師か――。
 阿久沢は踵を返した。黒子が急に駆け足になった。二段抜かしで石段を駆け上がってくる。木箱が邪魔になりそうなものだが、とにかく足が速い。阿久沢は懸命に逃げた。黒子が石段を上りきる。するとそこへ、
「また甦ったか、吸血傀儡師」
 横手の暗がりから大きな声が響き、付喪神ハイパーが万能唐傘を手にして飛び出してきた。傀儡少女が木箱から飛び上がる。二対一の、激しい戦いが始まった。

          6

 その間に別の出口へ向かって逃げた阿久沢は、出口まであと十メートル余りのところで、方向転換を強いられることになった。血みどろの兵隊が十数人、出口の前に立ちはだかっている。三八式歩兵銃を向けてきた。
 くそっ、ここも駄目か。
 背後で銃声が響いた。幸い、弾丸が命中することはなかった。
 何で今頃、午前二時の兵隊が?
 阿久沢は走りながら腕時計に目をやった。ちょうど二時である。
 どういうことだ? さっきは二時五分を回っていたのに……。
 公園に入る前から御蔵たちの妖術にかかっていたに違いない。
 次の出口の前には菊岩累が低空に浮かんで、こちらを睨んでいた。ほかの御蔵たちに比べると非力そうに見えたので、阿久沢は右手に持っていた御札を向けた。
 ここから強行突破してやる――。
 菊岩累が前髪を掻き上げた。醜い左半面が露になり、美しかった右半面も、見る見る醜く変わっていく。阿久沢は右手に強い衝撃を感じた。
「あっ」
 御札は、ぱりん、と乾いた音を立てて、真ん中から真っ二つに割れてしまった。
「ちくしょう」
 阿久沢は血相を変え、割れた御札を菊岩累に向かって投げつけた。次の出口を探す。その行く手に付喪神ハイパーが舞い下りた。
 振り返れば、午前二時の兵隊が横に隊列を組み、足取りをそろえて行進してくる。
 阿久沢は横手へ逃げた。
 しばらく走るうちに、児童公園へ出たが、そこにも黒子が立っていて、傀儡少女が上空をぐるぐると旋回している。
 付喪神ハイパーと午前二時の兵隊も近づいてきた。
 また横手へ逃げようとしたが、菊岩累が行く手を塞ぐ。
 完全に包囲されてしまった。
 先ほどの銃声を交番に常駐している警官も聞いているはずだが、助けに来ない。公園自体が異界と化しているのかもしれなかった。
 こうなったら、神頼みだ。阿久沢はショルダーバッグから、堀越にもらった御守りを取り出した。堀越、おまえもおれに力を貸してくれ。
 御守りを四方へ向ける。御蔵たちはかまわず、包囲の輪を狭めてきた。
 効かない。
 もはや、これまでか……。
 死を覚悟したが、
「待ちなよ。簡単に殺しちゃつまんねえじゃん」
 男にしては甲高い声が響いて、御蔵たちの足が止まった。SL機関車の陰から、簗瀬が姿を現す。
「偽中野さん、あなたもすぐに、仲間たちのところへ送ってやりますよ。最後に満足して死ねるように、何もかも教えてあげましょう」
「……気違いめ!」
 阿久沢は簗瀬ののっぺりした顔を睨みつけた。
「気違いか……そうかもしれませんねえ。小さな頃から、私は空想に耽るのが好きな子供でした。それが変だというので、よくいじめられたし、友達もできなかったんです。高校を出て、会社勤めをするようになってからも同じことでした。真面目にやってるのに、いつも嫌われるか無視されて、クビになったり、やめたくなるように仕向けられる。だからどこに就職しても半年と続かない。自分のことが嫌いで、毎日、早く死んでしまいたいと思い続けていました。自殺したかったけれど、そんな勇気もなかったのでね」
 どことなく女性的な口ぶりである。それが阿久沢にはなおさら気に食わなかった。
「ところが、二十二歳の時にすべてが変わったんですよ。私の中では、ね。何があったんだと思います?」
 阿久沢は睨むばかりで答えずにいたが、簗瀬はかまうことなく話し続けた。
「森田星太郎のファンになったんですよ」
 森田星太郎というのは、『小説飛翔』に長年に渡って時代小説を連載してきた往年の大作家である。六十七歳で病没し、すでに十数年経っているが、未だに作品が映画化やドラマ化され、その度に話題となる。あの乗附勝則も影響を受け、〈心の師匠〉として、終生尊敬していた。
「彼の本を読むうちに、私もいつか、こんな小説が書きたい、と思うようになったんです。もともと空想することや、文章を書くことが好きだったし、考えてみれば、小説家は一人でも仕事ができる。成功すれば多くの人から尊敬される。私のことを馬鹿にしたやつらを見返してやれるし、友達だってできるでしょう。それだけじゃない。女に好かれたことなんてなかったから、結婚は一生できないだろう、とあきらめていたけれど、いつかできる日が来るかもしれない。だから、小説家になるしかない、と思ったんです。その時、私は生まれて初めて希望というものを知ったんです。自分のことが好きになったし、生きることが楽しくなったんですよ」
 簗瀬は恍惚とした表情を浮かべていた。自分の話に陶酔しているようだ。
 一方、御蔵たちは「待て」と命じられた犬のように動かずにいる。
「しかし、それから何年経っても、プロにはなれなかった。たくさん小説を書いて、いろんな賞に投稿したのに、いつも一次選考さえ通らない。持ち込みをしようとしても、どこも門前払いだ。初めて一次を通ったのが、八年前の小説飛翔新人賞でした。もっとも、二次で落とされましたが」
 阿久沢は拳を握りしめた。どうせ殺されるなら、最後に右フックで思い切り殴り倒してやりたい。
「その間も、いろんな会社で働いてみたけど、やっぱり長く続かなかった。三十五の時に、就職はもう、あきらめました。小説家にならない限り、私は幸せになれない人間なんだ、と悟ったから。……同じ年に、父が交通事故で死んだんです。次の年には、母まで、脳溢血で死にました。いつか、まともな人間になって、親孝行をしようと思ってたのに……何一つ、いい思いをさせてやることが、できなかった……」
 簗瀬が何度も鼻水を啜った。涙ぐんでいるようだ。飛びかかろうとした阿久沢は出端を挫かれた。
「その頃、気づいたんだ。いくらがんばってもプロデビューできないのは、ほかにも作家志望の人間が大勢いて、そいつらが私よりも優れているからだ、ということにね。私を不幸にしているライバルどもを蹴落とす道具があったらいい、と思った。そこで『図書館奇談』という短編を書いたんだ。簗瀬天平、つまり私自身を作者とする『世界で一番怖い本』が出てくる話だ。作家を目指す人間がそいつを読むと、一生分のネタを奪われて、二度と小説が書けなくなってしまうのさ」
 簗瀬は敬語で話すのをやめていた。
「もちろん、本気でライバルたちを潰せるなんて、思っちゃいなかった。だけど、たまたま見たインターネットのサイトで、『世界で一番怖い本』に悩まされてる若者の書き込みを見つけたんだ。都市伝説になってるというから、びっくりした。私の作品を読んだのは、N社の下読みと編集者しかいなかったはずだろう。あの話が世間に広まるはずがないんだ」
簗瀬は夢中で語り続けていた。日頃、人と話す機会が極端に少ないせいかもしれない。御蔵たちは全員、身じろぎもせずに沈黙している。それを見た阿久沢は、作戦を変えることを思いついた。簗瀬がこのまま話し続ければ、やがて二時半となり、由紀が警察に知らせてくれるはずだ。警官が大勢来てくれれば、生きて帰ることができるかもしれない。
「じゃあ、たまたま自分の持つ能力に気づいたわけか」
 阿久沢は話しかけた。こうなったら、もっと喋らせてやろう。
「ああ。ざまあみろと思ったよ。どうしてこんなことができるのかは、自分でもわからないがね」
「それから、ここにいる御蔵たちが次々に現れたんだな」
「違うね」
 簗瀬が嘲笑した。
「私が三十七の年に、初めて書いたものが最終候補まで残った。『海とサンダルと風鈴と』という長編だ。その中で、若者たちが肝試しに行くシーンがあって、恐ろしい伝説の幽霊として語られるのが、ここにいる午前二時の兵隊なのさ。ところが乗附め、あの作品をぼろくそにけなしやがった。次の年の『生贄の日』もだ。森田星太郎のことを〈心の師匠〉と慕っているというから、兄弟子のように思って、本を沢山買ってやったのに……。私は心底、乗附のことが憎くなった。それでも、ここにいる御蔵たちはすぐには現れなかった。現れたのは、今年になってからだ」
「なぜ、今年なんだ?」
「去年、私が投稿した作品は、一次さえ通らなかった。今年も二次までしか進めなかった。私ももう、四十二だ。さすがに、運も才能も何もないことに気がついた。親から受け継いだ遺産も、あと半年くらいで尽きようとしている。近いうちに餓死することになるだろう」
 簗瀬は御蔵たちを見回した。
「私がプロになることができれば、いつかこいつらも、日の目を見る日が来るかもしれない。しかし、私がここで終わってしまう以上、こいつらも永遠に御蔵のままだ。だから祟りを起こし始めたのさ」
 完全に壊れてやがる。
 阿久沢は呆れた。ネットカフェで夜を明かす貧しい人々のことを〈ネットカフェ難民〉と呼ぶそうだが、簗瀬の場合、〈作家志望難民〉とでもいうべきだろう。
「小説が駄目なら、何か別のことを始めればいい。それだけのことじゃないか」
「無理だね。四十二にもなって、小説を書くことしかできない男を、どこの会社が雇うんだよ。第一、私に夢や希望を売りつけておきながら、それを絶望に変えた小説飛翔新人賞が、憎くて憎くてたまらなくなったんだ」
「そこまで小説家になりたいなら、なぜ途中であきらめる? ほかの会社の新人賞にも出してみるとか……」
「うるさいよ! 私は昔から『小説飛翔』を愛していたんだ。尊敬する森田星太郎が活躍していた雑誌だからね。乗附勝則や塩澤佐紀子もあそこからデビューしている。私もその中に名を連ねたかった。ほかのところじゃ駄目なんだよっ!」
 簗瀬はヒステリックに喚いた。そして急に、憑き物が落ちたかのごとく、静かになった。
「さあ、これで話は終わりました」
 阿久沢はちらりと腕時計を見た。二時二十五分を回っている。あと数分、持ちこたえれば、由紀が警察を呼んでくれるだろう。公園前の派出所まで連絡が届くようなら、すぐに助けが来るはずだ。
「待て。まだ、訊きたいことが……」
「さっきから時間稼ぎをしてることはわかってるんですよう」
 簗瀬が一重瞼の小さな目を吊り上げた。
「こいつもおまえたちを御蔵にしたやつらの仲間だ」
 大声で御蔵たちに命ずる。
「呪え! 呪え呪え呪え! 呪い殺してしまえっ!」
 それまで微動だにしなかった御蔵たちが動き出す。
「乗附勝則はかたづけたーーー」
「波潟康三はかたづけたーーー」
「堀越隆男はかたづけたーーー」
「丸山栄子はかたづけたーーー」
「有川太郎はかたづけたーーー」
「塩澤佐紀子はかたづけたーーー」
「鵜飼正恵はかたづけたーーー」
 それぞれが殺害した人々の名を口にする。
「最後の一人」
「最後の一人」
「最後の一人」
「最後の一人」
「我々を生み出した者」
「我々を御蔵にする原因を作った者」
「我々を狂わせた者」
「一番憎むべき者」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
「それは……」
 阿久沢は固唾を呑んだ。もはや生きた心地もしない。
「簗瀬天平、きさまだ!」
「御蔵入りした我々の恨み、今こそ晴らす時が来た」
「思い知るがいい」
「キ、キキキ!」
 御蔵たちが一斉に簗瀬を睨む。
「な、何だと?」
 御蔵たちが阿久沢の周りから離れ、呆然とする簗瀬を取り囲んだ。
「お、おまえたち、どういうつもりだ? お、お、おれは、おまえたちの、親、みたいなものなんだぞ」
 うろたえる簗瀬。
 御蔵たちは答えなかった。
「こらっ、ほ、本気かっ。くそっ。こ、この、馬鹿野郎どもがっ!」
 初めに黒子が背後から簗瀬に躍りかかった。羽交い絞めにする。
「ここはいったん、手を組むぞ」
 付喪神ハイパーが呪文を唱えてから、暴れる簗瀬の脇腹に、万能唐傘の刃を突き立てた。
 傀儡少女が飛びかかり、喉に噛みつく。
 簗瀬が凄まじい悲鳴を上げた。
 三者がいったん離れると、午前二時の兵隊が全員、三八式歩兵銃を構え、一斉に発砲する。
 全身十数ヶ所に弾丸を浴びた簗瀬は、目を白黒させつつ、二、三歩歩いてから前のめりに倒れた。砂塵が舞う。
 御蔵たちが全員、襲いかかった。もうもうと砂煙が舞い上がり、それが静まった時、簗瀬は衣服を剥ぎ取られ、胴体から首と手足と男根をもぎ取られていた。腹も割かれて、内臓が当たり一面に散乱している。
 これはひどい――。
 阿久沢は震え上がった。
 菊岩累がほっそりとした右腕を上げる。
 周囲に広がる暗闇の中で、何かが蠢いた。
 それが甲高い鳴き声を放ちながら、地面を移動してくる。
 外灯の光を浴びて、鼠の大群が露になった。まるで暗闇から湧き出てくるかのように、次から次へと姿を現す。
 千匹か、二千匹か、どれほどの数がいるのかわからない。東京中の鼠が集まってきたのではないか、と思いたくなるほどの大群が、四方八方からこちらへ集まってくる。
 大群は脇目も振らず、ばらばらになった簗瀬の死体めがけて殺到した。肉や骨が齧られる異様な音が響き、死体が見る間に小さくなっていく。
 阿久沢は逃げ出すこともできず、呆然と立ち尽くしていた。
 次はおれもああなるのか――。
 死体はたちまち食い尽くされ、血溜まりのほかには骨すら残らなかった。その血溜まりでさえ、乾いた地面にゆっくりと吸収されていく。剥ぎ取られた衣服も鼠が食ってしまったのか、消えていた。
 すべてがかたづいたところで、御蔵たちが全員、こちらを向く。
 今度こそ最期か――。
 阿久沢は怯んだが、御蔵たちはどういうわけか、襲ってこようとしない。誰もが悲しそうな表情をしているように、阿久沢には見受けられた。
 ふと、周りを見回すと、鼠はいつのまにか、一匹もいなくなっていた。
 なぜ、おれを殺そうとしない?
 阿久沢の思考を読み取ったのか、菊岩累がこう言った。
「おまえは私を、二次選考まで通してくれた」
 醜い彼女の顔から火傷と瘡蓋が消えて、美しい娘の顔へと変化していく。
「おれを御蔵にしたのは、おまえじゃなかった」
 付喪神ハイパーが言った。鎧と兜が消えて、穏やかな顔つきをした長身の青年の姿に変わる。
「キキ、キキキキキ」
 黒子が木箱の蓋を開け、傀儡少女が笑いながらその中に収まった。
 午前二時の兵隊たちが沈黙したまま、全員敬礼する。
 それじゃあ、どうして、おれを追い回したんだ?
 阿久沢の疑念に菊岩累が答えた。
「覚えていてもらいたかったからよ、誰かに。……私たちがいたことを」
 御蔵たちの姿が半透明になる。その姿はますます薄くなってゆき、ついには消えてしまった。あとには冷たい木枯らしが吹くばかり。

          7

「由紀! 由紀……」
 声が遠くから聞こえてくる。ぼんやりと霞んだ人間たちの姿が徐々にはっきりしてきて、母親と妹の姿になった。
「お姉ちゃんてば!」
 先ほどから何度も身体を揺さぶられていた。
 何してるの、二人とも。まだ夜中じゃない。もう少し寝かせて……。あんまり強く揺さぶらないでよ。
 由紀は目をつむろうとした。
「しっかりしなさいっ」
 頬を叩かれて、はっとした。布団の中で寝ているのではなく、床に仰向けに倒れているではないか。
 何でこんなことに……?
 思い出すまでに少し時間がかかった。
 そっか。午前二時の兵隊が出たんだわ。拳銃で撃たれて、あたし、気を失っちゃったのね。
 二人に介抱されて、いつのまにか目を開けていたらしい。
「う……お母さん……」
「ああ、よかった。気がついたのね。救急車を呼ぼうかと思ってたのよ」
 母親と妹の手を借りて起き上がると、ベッドまで移動し、身を横たえた。胸元に視線をやったが、血が出ていないところを見ると、撃たれてはいないようだ。
「兵隊を、見なかった?」
「何言ってるの」
 由紀の絶叫を聞いて、母親と妹は目を覚まし、心配になって様子を見にきたという。その時、部屋には床に伸びている由紀のほかに誰もいなかったそうだ。
 あっ、阿久沢さんはどうなったのかしら?
 しばらくしてからやっと思い出して、目覚まし時計を見た。二時三十九分。
 由紀は携帯電話の着信履歴を見た。阿久沢からの電話はかかってきていない。
「いけない。すぐに警察に知らせなくちゃあ」
 そこへ電話が鳴った。画面に〈阿久沢玲二〉の文字が表示される。どぎまぎしながら通話ボタンを押した。
「阿久沢さん! 無事でしたか」
「ああ。幽霊じゃないよ」
 阿久沢の明るい声が聞こえてきた。
「ごめんなさい。あたし……」
「なあに、いいんだよ。一時はどうなるかと思ったけど、どうにかかたづいたから」
「簗瀬天平は?」
「やつは、死んだよ」
 この時だけ、阿久沢は声を潜めた。
「御蔵たちに骨まで食われてね」

          エピローグ

 早朝、阿久沢玲二は始発電車に乗ってアパートへ帰った。ビデオカメラで録画したはずのテープを再生してみると、何も映っていなかった。カメラのスイッチが入っていなかったらしい。確かにボタンを押した記憶があるのだが。
 これじゃ、誰も信用してくれないだろうな――。
 警察には通報せず、寝不足で赤くなった目を擦りながら仕事に行き、昼休みに公衆電話からN社へ電話をかけた。
「偉いさんたちに言っといて下さい。あれは御蔵の祟りだった。そして、祟りはいちおう、収まったと」
 名を訊かれたが、名乗らなかった。
 さらに、二日後の朝。
 他殺と見られる鵜飼正恵の遺体がK臨海公園の人工浜で発見された。腹を深く抉られ、半裸の状態で波打ち際に打ち上げられた哀れな遺体は人々に衝撃を与え、好奇心と同情を誘った。この事件は『小説飛翔連続殺人事件』と呼ばれ、連日テレビや新聞で盛んに報道されることになる。
 警察は過去の自殺や変死も関連があったものと見て、再捜査に踏み切った。それによって、取り調べを受けた者もいたが、いずれも潔白とされた。翌年になっても、警察は容疑者を特定することさえできずにいる。

 なお、『小説飛翔』の編集者でありながら、たまたま簗瀬天平の作品を贔屓にしていて生き残った坂下慎司は、再び出社するようになった。彼は早速、腰巾着たちを率いて夜の街へ繰り出し、こう言い放った。
「やっぱり、おれは神様に選ばれた人間なんだなあ。近いうちによそからベテラン編集者を呼んで、編集長をやってもらうらしいけど、その人の後はたぶん、このおれが編集長になると思うぜ。うるさい先輩方はみんな死んじまったからさあ」
 これよりのち、『小説飛翔』は再び毎月発行されることになるのだが、新人賞の公募は中止された。新たな選考委員を立てようとしたものの、怪異に巻き込まれるのを恐れて、辞退する小説家や評論家が続出したためだという。

          ○

 年末近くの天気のよい午後に、阿久沢は由紀を誘って、御台場へ出かけた。海のある、にぎやかな場所へ行けば、陰鬱な気分も紛れるだろうと思ったのである。
 阿久沢は今度、木崎書店の正社員試験を受けることに決めていた。本屋の店長をめざすのも悪くない、と思うようになったのだ。
 お化け屋敷があったが、さすがに二人とも入る気がしなかった。東京湾がよく見える場所へ行き、しばらく話をした。
「じゃあ、御蔵たちって、簗瀬天平の新人賞に対する恨みと、ボツにされたものの恨みが一つになって生まれたものだったんですね」
「うん。おそらく簗瀬は、社会全体を憎んでいたんだろう。自分のことも含めて。……たまたまその矛先が、一時期、生きる希望を与えてくれた場所へ向けられたんだよ」
「何だか、親切にしてくれた人につきまとうストーカーみたい」
 由紀が眉を顰めた。
「希望と絶望って、紙一重なんですね」
「まったくだ」
「簗瀬が書いた小説のキャラクターは、全部、御蔵たちになったんでしょうか?」
「いや、これはおれの推測だけど、なったものとなれなかったものがいたんじゃないかな。簗瀬はかなりの量の作品を書いていたらしいけど、おれが会った御蔵たちは、四種類だけだった」
「ふうん……」
 警察は簗瀬天平の存在にも、彼が失踪したことにも気づいていないらしい。定職に就かず、家族も友達もいなかった簗瀬が姿を消したところで、すぐには気づく者もいないのであろう。捜索願いが出されることは、永久にないのかもしれない。
 本名さえわからぬまま、飛鳥山公園に果てた簗瀬に対し、あの夜、阿久沢は怒りを覚えるばかりだったが、時間が経つにつれ、一抹の憐憫を感じるようになっていた。何となく、編集者に復帰しようともがいていた頃の自分と、重なるものを感じたのである。
「ところで、阿久沢さん」
「ん?」
「御蔵たちって、阿久沢さんには手を出そうとしなかったんでしょ。意外と律儀な連中だったのかもしれませんね」
「まあ、そうだが……おれの場合、たまたま簗瀬の作品を下読みで通過させていたから、助かったんだ。落としていたら、みんなと同じように殺されていただろう。それを思うと、ぞっとするよ」
「でも、もう終わったことだし……」
「終わってはいないと思うよ。今は〈読みたい人〉よりも、〈書きたい人〉の方が多い時代だからね。簗瀬天平のような作家志望難民は、まだ大勢いるはずだ」
「じゃあ、いつかまた、新しい御蔵たちが現れることも?」
「ない、とは言えないね。新人賞に投稿される作品の九十九パーセントは、日の目を見ることなく消えていくんだから」
 阿久沢は東京湾を眺めながら、嘆息した。
「鵜飼さんも殺されちまったし、けっきょく、おれは誰も救えなかったんだなあ」
 楽しい話がしたいはずなのに、そんな愚痴が出てしまう。晴れているのに、濁った海から吹き寄せてくる風は冷たかった。
「そんなことないですよ」
 一転して、由紀が満面の笑みを浮かべた。
「阿久沢さんは、あたしを助けてくれました。おかげであたし、二、三日前から、また小説が書けそうな気がしてるんですよ」
 澄み切った冬の青空と、白いコートに身を包んだ由紀の笑顔がまぶしい。
「それはよかった」
 しかし……。いつか、この娘が書いた作品から、新たな〈御蔵〉が出現する日が来なければいいが――。
 阿久沢は疑心暗鬼を生じている自分に気づいて、ほろ苦く笑った。

                              (完)

(『御蔵』は純然たるフィクションです。実在する人物、企業、地域、施設、雑誌、文学賞などとは一切関係なく、モデルもいません)

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御蔵  《長編怪談小説 連載第十八回》

      九、簗瀬天平

          1

「さっき来た人、阿久沢さんの彼女ですか?」
 閉店後、店の床を掃いていた阿久沢玲二に月田由紀が尋ねた。
 阿久沢は苦笑いを浮かべた。鵜飼正恵とは年が近いだけに、店に訪ねてこられれば、誤解されてもしかたがない。
「違うよ。N社の編集者なんだ。簗瀬天平に関する情報を届けてくれた」
「へえ……」
「ただ、簗瀬の現住所はわからないそうだ」
 勤務時間が終了し、阿久沢は事務所へ入ると、もらったコピーを由紀に見せて、溜め息を吐いた。
「どうやって、やつの居場所を見つけ出せばいいのかなあ……」
 すると、由紀がロッカーから携帯電話を持ち出してきて、操作を始めた。
「彼氏からのメールかい?」
「違います。彼氏いませんから。そうじゃなくて、簗瀬天平のことが何かわかるかと思って、インターネットをね」
「なるほど。何か手がかりが見つかるかもしれないな」
 阿久沢自身は携帯電話をインターネットに接続していない。だからメールを送信することもできない。よく時代遅れと笑われるのだが、片手で小さな文字盤をカチャカチャと打ちまくる行為が、傍から見ていても、いかにも面倒臭そうで嫌なのだ。おまけに、今の阿久沢とメールのやり取りをする相手はほとんどいないといってよい。
 由紀は検索エンジンのサイトを呼び出し、〈簗瀬天平〉と入力した。
「出ましたよ」
「ほんとかい?」
 早いので驚いた。由紀の隣に立って覗き込む。仄かに甘い髪の香りがした。
『簗瀬天平文学館』というタイトルのブログである。数百字以内の掌編小説や有名作家の作品批評、日々感じたことなどを書いて発表しているらしい。プロフィールのコンテンツもあった。由紀が〈プロフィール〉の文字をクリックする。画面に情報が現れた。
『ペンネーム兼ハンドルネーム 簗瀬天平。東京在住。目標 小説飛翔新人賞を取ってプロデビューすること。得意なジャンル 怪談、ホラー』
 これだけである。都内のどの辺りに住んでいるのかを特定することはできない。警察ならば、プロバイダーから本名と住所を聞き出すこともできるが、阿久沢にその権利はない。
「あとは、中身に目を通してみるしかないか……」
「それで、住所がわかるんですか?」
「住所まではわからないだろうが、何区に住んでいるのか、ぐらいはわかるかもしれない。作家って、自分の地元を舞台にした話を書くことが多いから。人にもよるけどさ」
 そこまで話した時、事務所に店長をはじめ、ほかの従業員たちが入ってきたので、二人は話すのをやめた。店長が店のシャッターを閉め、お互いにねぎらいの言葉をかけ合う。解散してから、阿久沢は由紀に近づいた。
「月田さん、おれはこれからネットカフェに行ってみるよ」
 E出版で働いていた頃にはノートパソコンを一台持っていたが、今年の夏にそれが壊れてからは新しいものを買っていない。
「ブログ全部に目を通すには、携帯電話よりも、パソコンの大きな画面で見る方が早いと思うんだ」
「なるほどー」
「一緒に来るかい?」
 断られるのを承知の上で誘ってみた。何となく、もう少し由紀と一緒にいたい気がしていたのである。由紀は少し考えてから、微笑んだ。
「いいですよ」
 ネットカフェでは二人掛けのボックス席を選んだ。二人並んで座ると、恋人同士のようだな、と阿久沢はいささか緊張した。由紀も恥ずかしいのか、無口になった。
 パソコンを起動させて、簗瀬天平のサイトを呼び出す。絵や写真はほとんどなくて、黒い画面に白抜きの文字が並んでいる地味なブログだ。まめに更新していて、週に二度は新しい記事を書いているらしい。
 斜め読みで一通りの内容を見ていったが、とくに残虐なシーンのある小説や、殺人を予告するような日記は見当たらない。それはそうだろう。近頃では警察もインターネットに目を光らせている。悪質な内容のサイトはすぐにマークされてしまうはずだ。
 付喪神ハイパーや菊岩累、午前二時の兵隊のことにも、まったく触れてはいない。道理で過去に鵜飼正恵が、付喪神ハイパーについて検索した時にも発見できなかったわけだ。残念ながら、現在都内のどの辺りに住んでいるかをにおわせるような一節は、書かれていないようである。
「駄目か……」
 阿久沢は落胆した。急に疲労が込み上げてくる。
「コメントは全然ないみたいですね」
 由紀の言葉で、阿久沢は各記事の下についているコメント欄を見落としていたことに気づいた。読者が意見や感想を書くことができるものだが、どれも0と表示されている。マウスを合わせてクリックすると、
『投稿していただいたコメントは管理人が一度目を通しますので、公開までにお時間がかかる場合がございます。また、不適切と思われる書き込みは削除いたしますので、あらかじめ御了承下さい』
 と、注意書きが画面に出てきた。
「何かこう、几帳面というか、神経質そうな人みたいですね」
 由紀の言葉に頷き、阿久沢は画面を見つめたまま、しばらく考え込んだ。
 ひょっとして、これを使えば……。
「いけるかもしれない」
「えっ?」
「この機能を使って、やつをおびき出すことができるかもしれない」
 阿久沢はまず、大手検索サイトのホームページを開き、無料サービスとして提供されている、使い捨てが可能なメールアドレスを作った。これは自分のID番号とパスワードを作って入力すれば、ネットカフェや他人のパソコン、携帯電話からでも、送信と閲覧が可能となるものだ。
 続いて簗瀬のブログに戻り、一番新しい記事のコメント欄に書き込みを始めた。
『当方はおまえが『小説飛翔』編集者と、新人賞の選考委員の連続殺人事件に関与していることを突き止めた。インターネット上で実名を公表することも可能だ。マスコミにネタを売ることもできる。そうなれば、おまえは社会的な信用を失い、堂々と街を歩くこともできなくなるだろう。          闇夜の制裁者』
 先ほど作ったメールアドレスも打ち込む。
「悪いやつの脅し文句みたいじゃないですかぁ」
 由紀が眉を顰めた。
「おれもそう思う」
 キーボードを叩きながら、阿久沢は苦笑した。罪の意識と自己嫌悪を感じずにはいられない。
「だけど、これも呪いを終わらせて生き延びるための、苦肉の策なんだ」
 コメントを送信した。あとは相手の反応があることを祈るしかない。

          2

 翌日、仕事帰りにまたネットカフェに寄ってみたが、相手からの反応はなかった。
 さらに翌日。この日は仕事が休みだったので、阿久沢は昼過ぎから中野にあるネットカフェへ行き、簗瀬天平のブログを開いた。一昨日、阿久沢が書いたコメントは依然として公開されていない。簗瀬がまだ確認していないか、あるいは公開しないことに決めたかの、いずれかであろう。
 あんなコメントを公開するはずがない、と阿久沢は読んでいた。公開されてしまうと、第三者が横槍を入れてくることがあるので、阿久沢にとっても少々厄介なことになる。
 次に、メールが届いていないかチェックすると、一通届いていた。
『簗瀬です。取引のお話ですが、お金を払えということでしょうか?』
 早速、効果があったらしい。
 文面からして、意外と気が弱いやつなのかもな、と阿久沢は感じた。
 送信してきた簗瀬天平のメールアドレスも表示されている。しばらく考えてから、こう書いて送ってやった。
『何を取引するかは会ってから話す。数日中に新宿のN社前で待ち合わせをしたい。OKなら、すぐにメールをよこせ。          付喪神ハイパー&菊岩累を知る者』
 待ち合わせ場所にN社前を選んだのは、人通りがある場所なら、相手も迂闊なことはできないだろうと考えたためである。また、被害者たちが働いていた場所なので、相手の心理に動揺を与えることができるのではないか、という目論見もあった。
 時間潰しに一時間ほど漫画本を読んでから、もう一度メールチェックをすると、早くも返事が届いていた。小まめに到着するメールを見ているらしい。
 昼間家にいる人間なのか。あるいは、携帯電話から見ているのか。どちらにせよ、動揺しているみたいだ。思っていた以上の手応えだぞ。
『お一人で来ていただけるなら、お会いしましょう。こちらも一人で行きます。お互いに手出し無用ということで。ただし、場所は東京北区、飛鳥山公園内の野外ステージ前にして下さい。日時は明後日、十二月十日午前二時。ほかの場所や日時に応じるつもりはありません。          簗瀬』
 言葉遣いは丁寧だが、強引に場所と日時を指定していた。
 ちくしょうめ。阿久沢は憤りを覚えた。主導権を握っていたはずが、逆に握られてしまったようである。相手が指定してきた場所に赴くのはかなり危険だ。午前二時の兵隊が現れる時間でもあり、どんな罠を仕掛けてくるか、わかったものではない。
 気が進まなかったが、ここで交渉に失敗すれば、簗瀬天平と接触する機会は二度とないだろう。阿久沢は悩んだ末に返事を送った。
『了解した。十日午前二時、飛鳥山公園野外ステージ前にて会おう』
 ネットカフェを出た阿久沢は、鵜飼正恵に進展があったことを知らせてやろうと、携帯電話に連絡したが、電源が切ってあった。
 何やら嫌な予感がする。ただの予感で終わってくれればいいのだが。

          3

 翌日、仕事を終えてから、阿久沢は由紀と会った。アルバイトが非番だった由紀とは、新宿駅で待ち合わせをし、イタリアンレストランで食事をした。
 おれも死ぬかもしれない――。そう思ったとたん、無性に由紀と会っておきたくなったので、前夜のうちに電話をかけ、会う約束をしていたのである。
「一人で大丈夫ですか?」
「わからないけど、とにかく、行くしかないよ」
「行ってから、どうするんですか?」
「昨日、レンタル店でこれを借りてきた」
 阿久沢はショルダーバッグから、ビデオカメラを出してみせた。
「このバッグには小さな穴が開けてある。やつが連続殺人にかかわっているという証拠を喋らせて隠し撮りするんだ」
「幽霊や妖怪が出たらどうするんです?」
「心霊写真ってのがあるように、幽霊や妖怪だって、目の前に出てくれば、撮影することができるはずだ。それだけの証拠が手に入れば、簗瀬に何らかの制裁を加えることができると思う」
「うーん……」
 由紀が表情を曇らせた。
「飛鳥山公園て、森になってて、夜中になると人通りもなさそうですよね」
「そうだけど、すぐ近くに交番があったはずだから、危なくなったら、そこへ逃げ込むよ」
 阿久沢は以前交際していた彼女と一度、飛鳥山公園へ桜の花を見に行ったことがある。まったく知らない土地というわけではなかった。
「あたしも一緒に行きますよ」
 由紀は意外なことを口にした。
「きみが?」
 若い女子店員が茸の和風スパゲッティと、シーフードトマトソーススパゲッティを運んできた。阿久沢は話を中断した。
 事情を知らない人間が見たら、少し年の離れたカップルが、どこかへ遊びに行く約束でもしているように見えるのだろうか。何気なく、阿久沢はそんなことを考えた。女子店員が去ったところで、声を潜めて言う。
「気持ちはうれしいけど、それはいけない」
「どうして?」
「一対一で会う約束をした。相手がどんなやつでも、約束したことは破るわけにはいかないよ」
「向こうはきっと、そうは思っていませんよ。あたしが、少し離れたところで見張っていて、何かあったら助けを呼びます」
「駄目だ」
 阿久沢はきっぱりと言った。
「あたしが、女だから、ですか?」
「それもあるけど……無関係な人を危険な目に遭わせるわけにはいかない」
「無関係じゃありません。あたしだって、被害者なんです」
 由紀も『世界で一番怖い本』を読んだことで、ひどい目に遭ってきたのだ。簗瀬のことが憎いのはよくわかる。
「だから、簗瀬という人にはきちんと謝罪してもらいたいし、呪いを解いて、また小説が書けるようにしてもらいたいんです」
 阿久沢は眉間に皺を寄せて考え込んだ。おかげでうっかり、シーフードトマトソーススパゲッティにタバスコをかけ過ぎてしまった。
 由紀の言い分も一理ある。簗瀬が約束どおりに一人で来て、危害を加えようとしないとは、阿久沢にも思えなかった。二人で行った方が無事に済む確率は高くなるかもしれない。意思が揺らぎかけたが、
「いや、やっぱり駄目だ。二人とも死ぬようなことがあったら、元も子もないじゃないか」
 と、断言した。
「きみは自分の家にいてくれた方がいい。ただし、寝ないで起きていてくれ。おれは午前二時半までに話し合いを終えて、きみに電話をかけるようにする。それまでにおれから電話がなかったら、警察に通報してもらいたい。知り合いが凶器を持った殺人鬼に追い回されてる、とでも言えば、何人か来てくれるだろう」
 由紀は不満そうに黙っていた。
「おれに何かあった時には、後を頼みたいのさ。これも大事な役目だと思うんだ」
 不承不承といった態で、由紀は顎を引いた。それから何か思いついたらしく、持参したバッグを開け、
「じゃあ、これを……」
 木の板でできた御札を取り出した。
「ここへ来る前に買ってきた厄除けの御札です。使って下さい」
「ありがとう」
 阿久沢は笑顔で受け取った。ショルダーバッグの中には、かつて堀越からもらった御守りも入れてきた。これで二倍の効き目があるかもしれない。

 由紀と別れてから阿久沢は、JR山手線と京浜東北線を乗り継いで、王子駅に降り立った。時刻は午後十一時十七分。まだ時間があるので、飛鳥山公園の下見をしておくことにした。
 江戸時代、享保年間以来の桜の名所として知られる飛鳥山は、低い丘になっていて、桜のほかにも椚や椎や欅などの木々が鬱蒼と生い茂っている。もっとも、外灯も数多く立っているので、どこも真っ暗というわけではない。博物館や古墳があったかと思うと、城の形をした大きな滑り台やブランコがある児童公園があり、SL機関車やローカル電車まで展示されている。野外ステージは石段を下った窪地にあった。檜作りの舞台があるのみの、素朴な施設である。
 園内には初冬の深夜だというのに、ジョギングをしている男や、一人ベンチに座ってギターを弾いている若者がいた。
 さすがに地方の公園とは違って、人がいるな――。地方出身者である阿久沢はそう思った。かつて彼女と一緒に満開の桜の花を見に来た時の、楽しかった一日を思い出す。今は多くの木々が葉を落としていて、巨大な骸骨が並んでいるようにも見える。冷たい夜風が吹いていた。
 簗瀬天平もすでにどこかに来ていて、こちらの様子を窺っているのだろうか。ひょっとしたら、先ほど見かけたジョギング中の男か、ギターを弾いていた若者かもしれない。いずれにせよ、午前二時になればすべてがわかる。
 こうして見る限り、園内に禍々しい空気は漂っていなかった。夜空には無数の星が輝いている。
 阿久沢は公園を出て、派出所の位置と警官がいることを確認した。いざとなれば、ここまで逃げてくるしかないだろう。
 護身用にナイフでも買って、持ってくればよかったかな――。ふと、かつて捕まえた万引き常習犯の高校生のことを思い浮かべた。護身用と称してナイフを所持していた少年――あの時は呆れ返ったが、まさか数ヶ月後に自分が同じことを考えるようになろうとは、思いもしなかった。
 けれども、深夜にナイフなどを持って歩き回るのは、警察に逮捕してくれ、と言うようなものだ。パトロール中の警官に会い、不審者として職務質問でもされた日には、どうにも言い逃れができない。せっかくの簗瀬との接触の機会もふいにしてしまう。
 やっぱり丸腰で来たのが正解だったわけか。阿久沢は苦笑した。どこか時間を潰せそうな場所はないか、探すことにする。何軒か、夜通しやっていそうな居酒屋があったので、そのうちの一軒に入った。カウンターのみの小さな店で、店員は六十がらみの老女が一人いるだけだ。若い男の客が二人いて、おでんをつまみにコップ酒を飲んでいた。
 阿久沢も熱燗を頼む。二人組の先客は常連なのか、老女にも盛んに話しかけて笑っていた。阿久沢は黙ってゆっくりと一杯のコップ酒を飲んだ。人並み以上に飲める方だが、これから危険な相手と顔を合わせるのに、酔ってしまうわけにはいかない。
 十二月十日、午前一時四十分。少し早いが、阿久沢は勘定を済ませて店を出た。外はかなり冷え込んでいる。酒を飲んでいなかったら、凍えてしまいそうだ。
 街灯の下でショルダーバッグを開け、ビデオカメラのスイッチを入れる。バッグを肩にかけ、カメラのレンズが前方を向くようにした。携帯電話もいつでも使えるように、ジャケットのポケットに入れておく。
 八分前には飛鳥山公園の野外ステージ前に到着した。丑三つ時だけあって、人気はなくなっていた。心なしか、空気が重くなったように感じられる。夜空を見上げると、雲が出てきたのか、星が一つも見えなくなっていた。
 簗瀬め、早く来い。
 阿久沢は何度も周囲を見回した。木々が作る暗闇に誰かが潜んでいるような気がして、心が落ち着かない。足音がしないか、耳を澄ます。緊張で胸がひんやりとしてくる。鼓動の音がはっきりと聞こえるようになった。

          4

 由紀はM市にある自宅で、携帯電話を置いたテーブルを前にして座っていた。万が一の事態に備え、外出することもできるように、パジャマには着替えていない。眠くならないようにテレビを点け、好きなお笑いタレントが出演する深夜番組を見ていたが、内容は頭の中を素通りしていた。
 あと三分で二時か……。阿久沢さん、大丈夫かしら。
 年は一回りも上だが、小説を書いていた経験があり、文芸書の担当をしている阿久沢とは、何かと話題が合う。不器用な感じもするが、彼女に対しては優しいし、いざという時には頼りになりそうな男だ。今、一番心を惹かれている異性といえる。絶対に死なせるわけにはいかない。
 この夜、二階建ての月田家には由紀と二歳年下の妹と母親の三人しかいなかった。父親は仕事で仙台へ出張し、家を留守にしていたのである。
 残り一分を切った時、出し抜けに部屋のドアをノックする音がした。由紀は驚いたが、「ねえ、由紀」と、母親の声が聞こえてきた。
 何だ、お母さんか。いつもなら、とっくに寝てるはずなのに……。よりによって、こんな時に何かしら?
 立ち上がって、ドアを開けた。
 えっ……?
 母親はおろか、誰もいない。
 確かにお母さんの声がしたのに。
 由紀は怪訝に思いながら、ドアを閉めた。振り返って――。
 その場に凍りついた。
 四人の兵隊がすぐ目の前に立っている。
 全員顔面蒼白、血まみれ、泥だらけの姿で直立していた。
 四人とも長身ではないが、小柄な由紀よりはずっと背が高い。無表情な顔をして、こちらを見下ろしていた。
 ど、どうして、ここに……?
 由紀は後退した。背中がドアに当たる。まさか、この家に来るとは予想もしていなかったので、厄除けの御札は阿久沢にあげてしまっていた。兵隊たちが無言で近づいてくる。
 真ん中にいた一人が拳銃を手にして、由紀の左胸に突きつけてきた。カチャリ、と撃鉄を起こす音が、静かな部屋に反響する。
「や、やめて……」
 命乞いをしても、兵隊は無表情のままだ。血と泥で汚れた指が引き金を引く――。
 由紀は絶叫した。

          (次回、最終回につづく)

(『御蔵』はフィクションです。実在する人物、企業、地域、施設、雑誌、文学賞などとは一切関係なく、モデルもいません)

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小さなジュゴン(?) ガムシ登場!

 これはガムシという水生甲虫である。昨年の9月初め、クワガタ捕りに行って、外灯に飛んできていた2頭を拾った。体長は35mmくらい。「〈ガムシ〉という名前が嫌だ」と家族に言われた。たしかに〈蛾〉を連想させるので、〈蛾〉が苦手な者にとっては嫌な名前なのかもしれない。下の写真を見てもらうと、胸部から長い牙のような突起が出ているのがおわかりになると思う。これが牙のように見えることから、〈牙虫〉となり、それを重箱読みにしたのが、名前の由来ではないかといわれているそうだ。採集した時にはこの突起で刺され、手が痛かった。しかし、飼っているうちに馴れてきたのか(?)、刺さなくなった。

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 ガラス水槽にたっぷりと水を入れ、底に砂利を敷き、ホームセンターで買ってきた水草をたくさん挿しておいた。実は水草を主食とする、温厚な虫なのである。チンゲン菜や小松菜も食べたが、水が腐りやすいので、あまり与えなかった。水草をバリバリと食べ、金魚のフンを短く、緑色にしたようなフンをしていた。水の汚れを防ぐため、投げ込み式のろ過装置をエアーポンプにつないで使用。水換えは月に1~2度行っていた。

 胸部から腹部にかけて銀色に光っているのは空気の泡である。これを吸って酸素を取り込み、なくなると水面へ浮き上がってきて、再び空気の泡を体にくっつけて潜水する。酸素ボンベをつけているようなものだ。尻に泡をくっつけるゲンゴロウとは違う。泳ぎも潜水艦みたいにかっこよく泳ぐゲンゴロウと比べるとかなり下手で、バタバタと足を交互に動かして必死に泳ぐ(少なくとも、はたから見ていると、必死に見える)。そして浮き上がってしまわないように、水草や砂利にしがみついていることが多い。

 実はゲンゴロウとは近縁ではなく、外見が似ているのは〈他人の空似〉らしい。もちろん、甲虫類なので、ゴキブリとも近縁ではない。

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 観察していると、陸から水へ住処を移し、進化している途中の虫、という気がする。

 甲羅干しをよくする、と他のサイトで見たことがあったため、陸地を作ることにした。考えた末に購入したのが子ガメ用の浮島だった。これは気に入ったらしく、2頭ともよく上陸していた。このように近づいて写真を撮っても、まったく逃げようとせず、意外と神経が太いようだった。 どことなく、クロカナブンに似ているような……。あと、顔つきがジュゴンやマナティーといった、海草を食べる海牛類と似ている気がする。同じ水草を食べる動物だからかもしれない。飼育を始めてからは、夜間に部屋の電気を点けておいても、飛ぶことはなかった。

 昆虫マニアの間では、比較的簡単に捕れるせいか、あまり人気がない虫のようである。また、虫に興味がない人たちにはゴキブリに似た外見から嫌われる傾向があるようだ。しかし、開発が進んだ都市近郊ではなかなか姿を見かけないし、ゴキブリ似という点では、コオロギやスズムシの方がよほど似ているように思える。

 泳ぎ方がかわいいせいか、日が経つにつれて我が家では人気者になったが、1頭は去年の秋の終わりに、もう1頭は今年の1月まで生きて死亡した。寿命だと思う。残念ながら2頭ともオスで、繁殖をさせることはできなかった。ただ、カブトムシやクワガタは複数のオスを同じケースに入れておくと、必ず喧嘩をして、互いに命をすり減らすこともあるし、メスを攻撃するDVオスもいるのだが、ガムシの場合、喧嘩はまったく見られなかった。

 美麗にして頑丈な鎧を身に纏い、短い一生を闘争と交尾に明け暮れるカブトムシやクワガタの生き方は、確かに非常に魅力的である。だが、誰にも迷惑をかけないガムシの静かな生き方も、これはこれでいいじゃんか、と思えてくる。

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御蔵  《長編怪談小説 連載第十七回》

      八、付喪神ハイパー

          1

 阿久沢という男には、あまり期待しない方がいいのかもしれないわ。簗瀬を捕まえたところで、魔女狩りが盛んだった中世の欧米ならいざ知らず、今の日本では刑事裁判で無罪になるに決まってる。釈放されたら、また私たちに呪いをかけてくるに違いない――。
 鵜飼正恵は不満に思いながら、東京駅に降り立った。京葉線のホームへ向かって歩き出す。
 こんな時に、隆男さんがいてくれたら――。
 正恵は入社当初から堀越隆男のことを優秀な先輩として尊敬し、兄のように慕っていた。大学時代からつきあっていた彼氏がいたので、恋愛の対象として考えたことはなかったが、二年前にその男と喧嘩別れしてからは二人きりで会うようになり、交際が始まった。だから堀越が死の間際に、阿久沢に対して付喪神ハイパーの名を知らせたことを、実は面白く思っていなかった。
 隆男さんは、どうして私に最後の電話をくれなかったんだろう。あの男の方が、私よりも頼りになると思っていたのかな。
〈鵜飼〉は〈阿久沢〉よりも、あいうえお順で後になる。それで咄嗟に、苗字が〈あ〉から始まる〈阿久沢〉に電話をかけたのかもしれない。だが、いくら長いつきあいの友達だったとはいえ、あの夜来てくれなかった阿久沢に、どうして後のことを託す気になったのか、正恵には理解できなかった。
 京葉線に乗って十数分。電車は旧江戸川に架かる鉄橋を渡る。千葉県に入って最初の駅で、正恵は電車を降りた。ここから自宅までは歩いて十五分ほど。まだ午後五時前だが、短日はすでに暮れている。こんな日に、夜道を歩いて帰る気はしない。駅から団地の入口まで行くバスに乗った。仕事帰りの時間帯には少し早いせいか、乗客は少ない。
 バスが途中で大きな運動公園の前を通りかかった。正恵は公園の砂場に何日も埋められていた丸山栄子のことを思い出し、胸が痛むのを禁じ得なかった。
 やがて左手に住宅団地が、右手に工業団地が見えてきた。昼間なら、工場と工場の間から、黒く濁った東京湾が見えるはずだ。
 バスが住宅団地の入口に停まる。正恵はこの団地内の一戸建て住宅に、母親と二つ年下の弟と三人で暮らしていた。
 ほかに降りた者はいない。一人で団地の中を進んでいく。
 この辺り一帯は埋め立て地なのだが、小楢やマテバシイが数多く植えられ、ちょっとした林ができている。明かりの点いている家もあったが、歩いている人の姿はなかった。
 仕事帰りの時間帯よりも、少し早いせいなのかな?
 不思議に思いながら、団地の公民館がある広場までやってきた。今夕は利用者がいないようで、公民館には明かりが点いていない。広場には子供が遊ぶためのジャングルジムや砂場がある。
 外灯の光の下に、ふらりと現れた人影があった。首から木箱を提げた黒子である。黒装束が宵闇に紛れて目立たず、すぐ近くに来るまで気づかなかった。
 黒子が木箱の蓋を開けて、中から赤い着物を着た少女の傀儡を取り出した。
 まさか、これって、吸血傀儡師? 正恵は立ち止まった。
 きっと、編集長もこいつにやられたのね――。脇へ走った。広場を迂回して自宅へ逃げ込むつもりだったが、脇道へ入る前に、黒子が行く手に立ちはだかる。方向転換して逃げる余裕はなかった。正恵は無我夢中で叫びながら、黒子の胸を強く押した。
 あまりにも呆気なく転倒する黒子――。木箱の蓋が転がって、からん、という音を響かせた。
「あれ?」
 正恵は我が目を疑った。打ちどころが悪かったのか、黒子はぴくりとも動かない。少女の傀儡は見当たらなかった。
 次の瞬間、背中に何かが飛び乗ってきた。少女の傀儡だ。咄嗟に片手で顔を押さえつけたが、指を噛まれた。痛い! まるで犬に噛まれたようだ。しがみついてくる手足の力も強かった。こっちが本体なんだ!
 やられる――と思った瞬間、忽然と傀儡少女が背中から離れた。
 振り返ると、傀儡少女は空中に浮かんでいて、ギギイ、と苦しそうな声を発した。背中から何かを引き抜き、コンクリートの敷石に投げ捨てる。小刀であった。
「今日は逃がさんぞ、吸血傀儡師」
 若い男のすばらしい声が響く。
 公民館の屋根に長身の人影が乗っていた。ふわりと、大きな鳥のように舞い下りてくる。
 銀色に輝く仮面――。頭が尖っていて、吊り気味の目が六つ、縦二列に並んで赤く輝いている。黒いポンチョを身に纏い、銀色の唐傘を手にしていた。
 傀儡少女が髪に挿した簪を抜いて投げた。仮面の男が唐傘を開き、簪を撥ね返す。
 両者の戦いに気を取られていた正恵は悲鳴を上げた。仰向けに倒れていた黒子に足をつかまれたのだ。黒い頭巾がめくれ、目も鼻も口もない真っ白な顔が丸見えになっている。
 仮面の男が唐傘を閉じて走ってきた。空中に舞い上がり、急降下して黒子の腹を踏みつける。ポンチョから覗く手足も銀色に輝いていた。全身が鎧に覆われているらしい。
 黒子が正恵を放し、すばやく起き上がると、今度は仮面の男に組みついた。傀儡少女も背後から仮面の男に躍りかかる。後頭部に噛みついたが、仮面は頑丈にできていて、牙が刺さらない。仮面の男は黒子を殴り倒し、傀儡少女を振りほどいて、投げ飛ばした。
 キキキッ。傀儡少女が鳴きながら宙返りし、地に降り立つ。
 正恵は腰が抜けてしまい、立ち上がることができなかった。これだけの騒ぎが起きているというのに、周りの住人たちが誰一人として出てこない。目の前で繰り広げられている戦いも異常だが、住人たちの無関心さも異常ではないかと思えてきた。もともと防犯意識の強い人たちが多く、治安のよい団地なのだが、今日はいったい、どうしたというのだろう。これではまるで、堀越が恵比寿のマンションから攫われた時と同じではないか。
 仮面の男が呪文を唱えながら唐傘を身構える。尖端から白刃が飛び出した。ただの唐傘ではない。閉じた状態では槍となり、開いた状態では盾となる武器なのだ。
 再び組みつこうとした黒子の胸を、容赦なく突き刺す。
 その隙に、傀儡少女が夜空へ舞い上がり、白い牙を閃かせながら急降下してきた。
 仮面の男は黒子が倒れるのを確認することなく振り返った。
 傀儡少女の胸にも一撃。
 刃の尖端が背中から飛び出す。
 背後で黒子が前のめりに倒れ、消滅する。串刺しとなった傀儡少女も、もがきながら消滅していった。
 戦いに勝った仮面の男が正恵に近づいてくる。
 片手を差し伸べ、立ち上がらせてくれた。どうやら、彼はいわゆる〈正義の味方〉らしい。
 これって、現実なの……? 子供の頃に弟と一緒に見ていたテレビのヒーローものみたいじゃない。
 まさか、二十八歳になって、こんな光景を実見することになろうとは思いもしなかった。正恵はつい、うっとりしてしまい、自分がドラマのヒロインになったような気さえしてきた。
「ありがとう。あなたは、誰?」
 仮面の男はしばしの沈黙の後、厳かな声でこう答えた。
「付喪神ハイパーだ」
「ええっ」
 正恵は腹の真ん中が、かっと熱くなったのを感じた。
「あっ……」
 唐傘の槍が臍のすぐ上に突き刺さっている。
「ああ……な、何で……?」
 いっぺんに夢から覚めた気がした。
「悪を倒すのがおれの役目」
「……私が、悪?」
「おまえらは我々を御蔵にした張本人だ。見逃すわけにはいかん。この恨み、とくと思い知るがいい」
 唐傘の槍を持った手に、さらなる力を込めた。正恵は公民館の壁に背中を押しつけられ、逃げ場を失った。刃が深く突き刺さり、肉と胃の腑を抉っていく。
 不思議と激しい痛みは感じなかった。それどころか、なぜかこんな時になって、忘れかけていたはずの『闇夜の制裁者』のストーリーが脳裏に浮かんできた。

   2

 彼は子供の頃、不良少年から金を巻き上げられ、毎日のように殴られていた。そのため悪人を嫌い、いくつになってもテレビのヒーローものを好んで見ながら育った。
 すらりと背の高い青年に成長した彼は、郵便配達の仕事をしながら、趣味として鉄を使ったアート作品を作るようになる。そんなある夜、帰宅途中にバイクに乗って暴走する少年たちの姿を見かける。騒音に悩まされ、注意すれば暴力を振るわれるのではないかと怯える市民たち。補導できずに手をこまねくばかりの警察。
 腹を据えかねた彼は、次の晩、道路にロープを張ってバイクを転倒させようとするが、その夜に限ってなかなかバイクが現れなかった。あきらめて帰宅する途中、別の少年グループに捕まり、オヤジ狩りに遭ってしまう。
 金を取られたうえに重傷を負った彼は、しばらくの間、仕事に行くことができなくなった。怪我がある程度回復してから、暇潰しとリハビリを兼ねて自宅の物置を掃除していると、古い器物がたくさん見つかった。骨董品と呼べそうなものもあるが、ほとんどがガラクタばかりだ。実は彼の曽祖父が所有していたものであった。
「溶接すれば、面白い作品ができるかもしれないぞ」
 彼は鎧兜と武器を製作することに決めた。それを着れば、子供の頃から憧れていたスーパーヒーローの気分が味わえそうな気がしたからである。完成品を実際に着用してみると、奇跡が起きた。
 器物は百年経つと、付喪神と呼ばれる妖怪に変化するといわれている。鎧兜が完成した時、ちょうど百年が経過し、付喪神となったのだ。
 悪を倒すスーパーヒーローになりたいと強く念じる彼の身体と、鎧兜は一体化した。付喪神は日頃、彼の体内に潜み、ここぞという時に彼の姿を変身させるようになる。
「悪人どもを野放しにしておくわけにはいかない。おれが街の掃除をするんだ」
 自らを〈付喪神ハイパー〉と名乗った彼は、〈万能唐傘〉を武器とし、さまざまな妖術を使って、暴走族の少年たちを懲らしめる。さらに、法で裁かれることのない極悪人たちを次々に倒していく。
 やがて強大な力を持った死霊にとり憑かれた官僚が、仲間を呼び集めて人類を滅ぼそうと画策する。敵の中には三百年の眠りから覚めた〈吸血傀儡師〉もいた。付喪神ハイパーはただ一人、戦いを挑むが、付喪神の持つ魔力が日毎に増大し、ついには人としての心を乗っ取られてしまう。本物の妖怪となった彼は、悪人ばかりでなく、善良な人々までも襲おうとして……。 

 結末は失念してしまったが、途中まではそんなストーリーだったはずだ。さらに正恵は、一昨年の第二次選考会を思い出した。

丸山「これって、ダークヒーローものなんですよね。みんなはどう思いますか?」
坂下「おれは好きですよ、こういうの。だから下読みで一次を通しました」
鵜飼「私はどうもあまり……。大人が喜んで読むような話ですか、これ」
坂下「今は深夜番組で大人向けのヒーローものまで放送されてる時代なんスよ、鵜飼先生」
鵜飼「(むっとして)その、先生っていうのはやめて。私はあんたの保育士になった覚えはないわよ」
丸山「まあまあ、二人とも」
波潟「……」
堀越「面白いけど、傷も多い作品なんですよね。キャラクターの名前がなあ……。ハイパーって言葉は、外来語の上につけるものなので、日本語と一緒にするのは変じゃないかと。造語として認めるにしても、〈ハイパー付喪神〉と、呼ぶべきでしょうね」
鵜飼「誤用なんですね。この作者、あんまり語学の知識がない人なんでしょうか」
波潟「……」
坂下「そんな細かいことに突っ込まなくても、内容が面白ければいいじゃねえスか」
堀越「もう一つ。悪役として、吸血傀儡師というのが出てきますが、この作者って、去年も『吸血傀儡師』という怪談を書いてましたよね。確か、傀儡師が黒子姿なのはまちがいじゃないか、ってことになって、三次で落としたと思うんですが、今年もその部分が修正されていないんですよ」
鵜飼「大事なことをちゃんと調べずに書いちゃう人なんですね。プロ向きじゃない気がします」
(一同、しばらく沈黙)
丸山「けっきょく、ラノベなんだよねえ、これ。ラノベだと、よそが専門にやってるから、うちではちょっとねえ」
堀越「漫画の原作か、実写のシナリオだったらいいかもしれないけど、小説でこういう路線は厳しいでしょうね」
丸山「波潟さんはいかがですか?」
波潟「私にはこの話のどこか面白いのか、さっぱり理解できませんでした」
丸山「わかりました。じゃあ、この作品は落とすということで」

 付喪神ハイパーが〈万能唐傘〉の刃を引き抜いた。正恵は初めて激痛を感じた。たまらず激しく呻いて、その場に蹲ってしまう。
「胃袋の前と後ろに穴を開けておいた。傷口から溢れ出た胃液が内臓を溶かす。しばらく苦しんでから死ぬがいい」

          (次回 第九章へつづく)

(『御蔵』は純然たるフィクションです。実在する人物、企業、地域、施設、雑誌、文学賞などとは一切関係なく、モデルもいません)

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WEB幽に4、5月に掲載された作品

 昨年12月から今年2月にかけて『WEB幽』に掲載された自作を、このブログでも紹介してきました。

 3月は他ジャンルの小説を書く都合があったため、ネタはあったのですが、投稿を休みました。4月と5月は掲載されていながら、ブログの更新まで手が回りませんでした。そこでこの機会に、2作とも紹介しておこうと思います。

 4月掲載作品『妖怪クルクルイセ』

 5月掲載作品『黄泉の国への階段』

 未読の方はよかったらどうぞ。

 とくに『黄泉の国への階段』は実際の取材を基に書いた話です。あくまでも〈実話系〉なんですが……(笑)。しかし、あの階段は本当に凄かった。この世にあれほどの場所があったとは……。帰り道が大変だったなあ。

 夜中に一人で行ったんですよ。何やってるんだろうね、おれも(苦笑)。

 この手の〈取材〉は、若い頃は何だかんだ言って、友人知人に声をかけると、一人や二人は一緒に来てくれるヤツがいたんだけど、さすがにこの年になると誰もいない。一人で行くしかないわけですよ。まあ、度胸はわりとある方みたいなので、一人でも怖いと思うことはあまりないです。

 ところで、『WEB幽』への投稿に関しては、12月からパーフェクトで来ています。以前はきわどいコースを狙ってボール球を投げてしまうことも多かったのですが、最近はストライクゾーンから外れない投球ができるようになった気が、自分ではしています。

 なお、6月は投稿を休みました。たぶん、今月も休みになると思います。理由はわかる人にはわかると思うので、書きません(ニヤリ)。

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